FKDの部屋

FDJです。写真を取ります。気持ち悪い文章も書きます。

記録と表現 写真の二面性

station

駅から一日を始め、駅で一日を終える。

ゆりかごから墓場まで。なんちって笑

 

こんにちわ。FDKです。

私の写真に対する価値観を書いていこうと思います。ただの素人がダラダラ書いてるだけです。よろしくお願いします。

 

写真には記録と表現、2つの側面があると思います。

 

前者には正確性や緻密性が求められます。写真という熟語の通り、真実を写すのです。人類はカメラ・オブスクラを発明したときから如何に正確な写真を撮影するかを模索し、2024年現在では24億画素ものカメラを発明しました。ここまで来ると現実がなにか解らなく成ります。

 

一方の後者は概念が常に変化し続けます。しかし、一貫しているのは何らかのメッセージ性を含んでいるということです。例えば旅行先での風景をはっきりと、写実的(写真に写実的と評するのが正しいかどうかは分からないが)に撮影してみたり。はたまた象徴的な物体を焦点に、風景をぼかしてみたり、陰影をつけてみたり、フィルムカメラノスタルジアを表現してみたり、色々あるでしょう。撮影者が何を意図し、何を目的として撮影したのか。それを考察するのも表現としての写真の醍醐味なのではないでしょうか。

 

私が危惧しているのが、先程述べた2つの側面を混同している写真が、作品として受け入れられていることです。世に送り出す作品として、「撮影した私とその仲間たち」みたいな匂いがする写真は私は好きに慣れません。考察する余地がないのですから。思い出の記録としてならば作品展に出してほしくないし、それはただの公開オ◯ニーです。

 

以上今回の記事でした。

気が向いたらまた書くかもね。

 

 

 

初恋の儚さを追う

初恋

今回の写真はこちらです。

写真内の彼らは今何を思い、どうしているのでしょうか。

それを我々が知る由はないのです。ふふふ...

 

もう3月です。別れの季節です。

こんないい天気に別れなんて...と中原中也も詩を書いていましたね。

今回は私の人生を構成する三人の女性について書こうかと思います。

 

一人目はN.Sさんです。

過去に戻れるなら、もう一度やり直したい女性です。

彼女と出会ったのは小学生の時でしょうか。ある意味初恋でした。ある日、転校生としてやってきた彼女の第一印象は「ヘンな奴」です。しかし、なにか引かれるものがあったのか、気がついた頃には親しい仲になっていました。彼女は私の趣味に影響を与えました。私の趣味については今後書ければいいなと思います。

 

二人目はA.Mさんです。

来世、もう一度出会いたい人です。

彼女は私の人生を変えた人です。彼女と出会ったのは、私が高校二年生のときです。

 

月夜に降る雪のように煌めく瞳。

触れただけで溶けてなくなってしまうような儚い身体。

クラシック音楽を連想させる声。

拙い私の文章力ではこのように表現することしかできません。

 

私が勉学に励めた理由は、単に彼女が聖人だったからです。彼女と話すため、関わるため、仲良くなるため、超えるため、認めてもらうため、私はあらゆる努力を惜しみませんでした。結果として私は彼女と結ばれることはありませんでした。ですが彼女との関わりにおいて、私という存在が形成されたのは言うまでもありません。

 

三人目はT.Mさんです。

今、ともに時間を過ごしたい人です。

彼女については...まぁ、いずれ書きます。

邪険に扱っているというわけではないです。

それくらい気が置ける存在ということです。